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「何者かでありたい」と、私は昔からずっと思い続けてきました。
それ自体は割とありふれた思想だろうと、そう思います。
ただまぁ、「何者か」の定義って人それぞれですよね。
私の場合は「一般大衆とは違う、特別な個人」のことをそう定義しています。
「私はお前らとは違うんだ」とか「敷かれたレールなんて嫌だ」みたいな、要は中二病的な思考だったわけです。
けど、実際、思春期の頃にそう思い描いていた人って沢山居ると思うんですよね。むしろ全体の半数を超えると考えてすらいます。
ただ私のそれは少し違うというか、引き摺ってしまっているんですね。未だに。
思春期の思想を引き摺っているというか、むしろ思春期を拗らせたような感じですらあります。
未だに思春期の真っ只中に居るような感覚。心を若く保っていると表現すれば少しは聞こえが良くなるでしょうか。
まぁ、その実態は醜くて仕方がない、叶いもしない夢に縋り続けた果ての意地汚いものです。
ただ、同じ思想でも時が経つにつれて変化してくる部分もあるのです。
昔は「他人と違うと認められたい」と考えていたのに、最近は「自分自身が何者かになれたと認めれなければ意味がない」という感じに変わってきたのを感じています。
要するにめんどくさくなった。より拗れました。
昔は煽てられれば木に登ろうとしてたところを、今煽てられれば食ってかかるようになったようなものです。
あと、これは確証は無くなんとなく察しているものなのですが、自己肯定の判断基準が自分自身に依存しているということは、もし今後どれだけ出世しようと自分自身を認めることはできないのだと思います。
この思想が今後の人生で変化する可能性も十分ありますけど、少なくとも今の私には想像できない。
別に未来のこと想像できる人なんてそもそも殆ど居ないでしょうし、今想像出来ないからって今後絶対に変わらないなんてことは無いですけどね。
むしろ変わらない方がおかしいのでは?という気もしますし、恐らくいつかは変わるのでしょう。
最終的に自分のことも認められて幸せな人生を過ごせるようになるといいですね。